株式会社高石造園土木 株式会社高石造園土木
株式会社髙石造園土木の歩み

髙石造園土木の歩み
京都は三方、山々に囲まれ、平野部には鴨川、桂川が流れ、自然景観が豊かで、平安京が遷都されてから、
江戸時代まで都として、歴史文化を築いてきました。
我が社は、頼山陽(1781-1832)が「山紫水明処」を造営した場所のほど近くに
初代髙石熊右エ門が植木屋を営みはじめたのが始まりです。

髙石造園土木の歴史(幕末から明治)
髙石熊右エ門は、江戸幕府の大老井伊直弼らがおこなった安政の大獄(1858-1859)の後、桜田門外の変(1860)、文久の改革と激動の幕末期に、新たな時代の創造を志しておりました。
明治時代になり、近代国家の始まりを平安神宮の造営、琵琶湖疏水の開拓、またその琵琶湖疏水を利用した南禅寺界隈の別荘群の宅地開発。疏水運河という滋賀と京都を結ぶ活気的な流通手段を利用し、多くの石材が京都に運ばれ、宅地造成を生業とする一般土木業や造園業が盛んになりました。

髙石造園土木の歴史(昭和の大礼)
昭和3年(1928年)11月10日、京都御所において昭和天皇の「即位の大礼」が執り行われました。当日の参列者は2000名以上とされ、この日のために、南禅寺界隈の別荘群は、皇族の方々の宿泊施設に使用されたりしました。現在の阪急京都線の前身である新京阪鉄道と近鉄京都の前身である奈良電気鉄道は、この昭和の大礼に合わせるように暫定開業しています。
京都御所に近くに営んでおります我が社では、初代会長髙石保夫が若き青年の頃で、この機会に多くの造園土木の仕事に従事できた経験が、庭園工事や維持管理だけでなく、造園工事を主体とした一般土木をも含む総合事業として地盤を確保するきっかけになっております。


髙石造園土木の歴史(戦後復興期)
第二次世界大戦後、京都は戦禍を免れた場所でしたが、戦後すぐに現在の京都府立植物園や南禅寺界隈の別荘群などは、進駐軍の住宅施設として利用されました。昭和32年(1957年)にようやく接収解除となり、再び返還されました。欧米的な暮らしに利用されていた施設を改めて整備し、現在のように使用できる施設へと改修工事を従事してきました。

髙石造園土木の歴史(高度成長期)
戦後20年経ち、日本全体が経済成長すると共に髙石保夫の子息も成長し、日本道路公団、住宅・都市整備公団などの特殊法人による大規模な道路緑化、インフラ整備をともなう宅地開発整備による緑道・公園整備を従事してきました。
特に、京都では西京極野球場(昭和44年)、大阪では日本万国博覧会(昭和45年)、滋賀では、希望が丘文化公園(昭和49年)など近畿地方における大規模な造園事業に従事してきております。
また、会長髙石秀雄(昭和61年社長就任)の業績により、沖縄海洋博覧会会場や関門大橋開通にともなう周辺整備など九州方面へも仕事は拡大していきました。

髙石造園土木の歴史(平成)
バブル経済成長とともにはじまった平成では、平成3年(1990)に大阪で開催された国際花と緑の博覧会、その二年後の平成5年(1993年)では、京都において緑化フェアが開催され、その会場設営及び造園工事を京都における有力造園会社とともに従事し、展示庭園では、京都市長賞をいただきました。
同時期に英国のジャパンソサエティ創立100周年を記念して「ジャパンフェスティバル1991」の一環としてロンドンのホーランド公園に「京都庭園」が完成しました。この庭園は、京都商工会議所のお力と京都府造園組合・京都市造園建設業会のメンバーの協力によりできたものです。
また、作庭から二十年の間に、何度も維持管理のために渡英しております。
  記念表彰

当時の工事風景

当時の工事風景

当社施工物件

当社施工物件

当社施工物件


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